円山応挙からはじまる“生を写す”近代絵画の系譜 東京藝術大学大学美術館

「円山応挙から近代京都画壇へ」2019.8.3~9.29<前期:8.3~9.1 後期:9.3~9.29>【東京藝術大学大学美術館】

大乗寺「孔雀の間」の《松に孔雀図》は、寛政7(1795)年、円山応挙が亡くなる3か月前に描いたもの。仏間前の広間に嵌められた襖絵は、部屋の隅となる部分を生かして立体感を生み出す構図で、襖に開け閉めがあっても松の枝に繋がりを感じられるのだという。

展示室でこの絵を前にし、自分が色彩を感じていることに驚く。金地に墨の濃淡を使って描かれた絵の中に、松葉の緑や孔雀の羽の色が、見えるかのように現れるのだ。墨の原料や作り方による、発色の違いを生かした表現。人の中にある記憶や感動を呼び起こすものが作品であるならば、これはまさに応挙が絵師人生をかけてたどり着いた領域の作品なのだろう。

自然や動物を観察し、“生”を写すということ。本展では、円山応挙が日本画壇にもたらした「写生画」と、のちの絵師・画家へと脈々と繋がるその系譜を体感する。もとは狩野派系の石田幽灯に学んだ応挙だが、手本(粉本)に倣った従来の絵ではなく、その卓越した写生表現によって人気を博していった。博物誌や本草学の流行という18世紀当時の背景を捉えつつ、京都の四条という場所から、円山派・四条派の弟子たちが、応挙に倣うと同時に自身の表現を生み出し、1つの潮流となっていく様子を見て取ることができる。

今も賑やかな通りとして知られる、京都の四条通。応挙が京都に出て、初めて奉公したのが四条新町の呉服商だったという。住み込みで眼鏡絵を描いたのが四条富小路西入り、その後に引っ越したのが四条麩屋町、屋敷を構えたのは四条堺町。古くは狩野探幽の京屋敷があり、応挙と同時代には伊東若冲や与謝蕪村が近くに暮らし、円山派や四条派の絵師の多くが居を構え、のちに上村松園が生まれ育つことになる、四条。図録では、この四条通を“日本のモンマルトル”とたとえて、京の町の醸成された環境を表現している。

空間を演出する障壁画は、作品のみを取り外して展示すると、実際の場面とは異なる印象を持つものだ。本展では襖絵の位置関係や明るさが本来の間と異ならないよう工夫しているほか、襖のある空間を写真家・三好和義氏の写真で紹介。さらには大乗寺の建つ様子をVRで体感できるなど、きめ細やかな配慮がなされている。このような展示には、なかなか出会うことができない。
兵庫県美方郡香美町にある大乗寺。円山応挙とその弟子たちが総出で障壁画を描いた“応挙寺”とも呼ばれるこの寺が、京都の町からは決して近くはない、日本海沿いの自然豊かな場所にあるということを最後に知ることになるのは、なんだかドラマティックな演出だ。

東京で、円山応挙や円山・四条派の作品を観るという贅沢を叶えてくれる本展。大乗寺の障壁画はもちろん、動物画や美人画などみどころの多い充実の展示から、京都で近代の絵画が育っていく様子を体感する。

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東京藝術大学大学美術館
東京都台東区上野公園12-8
https://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/current_exhibitions_ja.htm
<公式サイト>
https://okyokindai2019.exhibit.jp
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