現実から離れたところにある「モネとマティス もうひとつの楽園」ポーラ美術館

「モネとマティス もうひとつの楽園」2020.4.23~11.3【ポーラ美術館】


箱根のポーラ美術館では、クロード・モネ(1840-1926)とアンリ・マティス(1869-1954)の展覧会が開催されている。印象派を代表する画家であるモネとフォーヴィスムの画家で“色彩の魔術師”として知られるマティス。今回の特別展で2人を結びつけるのは『楽園』というテーマだ。

約10,000点のコレクションを誇るポーラ美術館。「モネとマティス もうひとつの楽園」展には、クロード・モネ《睡蓮の池》、アンリ・マティス《リュート》をはじめとする膨大な所蔵作品に加え、国内外の美術館から作品が集まった。

年齢差30歳ほどの2人の画家が生きた19世紀後半から20世紀前半は、産業革命から人々の価値観が大きく変化した時代だった。工場の煙突が立ち並び、鉄道が発達、パリの都市化が進んだだけでなく、二度の世界大戦が起こり、スペイン風邪が流行。芸術を受容する層が、それまでの貴族から経済活動を行うブルジョワジーへと変化した時代。印象派の画家たちは、自然光溢れる避暑地で過ごす貴族やブルジョワジーを描いた。

作風の異なるモネとマティスだが、2人の共通点は、パリから離れた土地に暮らし、自分の理想とする空間を作り上げたことにある。それが実は厳しい現実とはかけ離れた人工の楽園であったことを知るには、彼らの生きた時代背景を辿るしかない。

<モネとマティスの生きた時代>
1837年 サン・ラザール駅開業
1840年 クロード・モネ パリに生まれる
19世紀後半 パリ大改造
1867年 第2回パリ万博に日本初参加
1869年 アンリ・マティス 北フランスのル・カトー=カンブレジに生まれる
1870年 モネ 普仏戦争の徴兵を避けてロンドンへ
1893年 モネ ジヴェルニーに土地を購入
1914年から1918年 第一次世界大戦
1918年から1920年 スペイン風邪の世界的流行
1917年 マティス ニースに到着
1918年 マティス メディテラネ・ホテルに滞在
1921年 マティス ニースに部屋を借りる
1926年 モネ ジヴェルニーの自宅で86歳にて生涯を閉じる
1927年 パリ・オランジュリー美術館でモネの《睡蓮》大壁画が公開される
1939年から1945年 第二次世界大戦
1943年 マティス  ニースから爆撃の危険を逃れてヴァンスのル・レーヴ荘に移る
1949年 マティス ニースのレジナホテルに戻る
1954年 マティス ニースで84歳にて生涯を閉じる


モネは、セーヌ川沿いを点々と移り住み、最後に小さな農村ジヴェルニーに辿り着いた。広大な土地に理想の庭を作り、住居とアトリエを構えたモネ。セーヌ川の水をわざわざ引き込んだ池には、パリ万博で出会った睡蓮、歌川広重の浮世絵《亀戸天神境内》に倣った太鼓橋。このお気に入りの橋の傍らには異国情緒を感じさせる藤や柳を配した。

何度も何度も同じ場面を描いたモネの連作。作品からは、刻々と変わる光とともに、一瞬と永遠が感じられる。

ニースの海を望むホテルにアトリエを構え、モデルの服を自ら縫い、背景の布やアクセサリーまでも自ら買い求めたマティス。彼は、窓から見える景色、部屋の空間、心惹かれる人物、色や模様を配置しながら、自らの理想とする楽園を作り込んでいった。

ヨーロッパから中東、アジア、オセアニア、アフリカまでさまざまなテキスタイルを収集していたマティスは、このコレクションを「仕事の図書館」と呼んでいた。美しい模様の布は、異国情緒を表すだけでなく、いくつもの模様をレイヤー化することで、現実の空間よりも奥深い世界を表現するのに役立ったという。

“私が夢みるのは心配や気がかりの種のない、実業家にとって精神安定剤、肉体の疲れを癒すよい肘掛け椅子のような芸術である”――アンリ・マティス『画家のノート』

また、第一次世界大戦の終結を記念して国家に大壁画《睡蓮》(オランジュリー美術館)の寄贈を提案したモネは、インタビューにこのように答えたという―― “仕事に疲れた神経は 静かな水の広がりに従って解き放たれる。この部屋を訪れる人々に 花咲く水槽に囲まれて穏やかに瞑想する安らぎの場を提供できるだろう”

「光」「水」「異国情緒」に溢れたモネとマティスの作品。2人の作品には、決して現実の苦しみは描かれない。
なぜなら、それは彼らが人々を癒すために作りあげた“楽園”なのだから。

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ポーラ美術館
神奈川県足柄下郡箱根町仙石原小塚山1285
https://www.polamuseum.or.jp
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