次代に受け継ぐもの。復元された名古屋城本丸御殿

2018(平成30)年6月、名古屋城は復元した上洛殿や湯殿書院を公開した。2009年から行われていた名古屋城本丸御殿の復元工事は、第1期(2013年公開)、第2期(2016年公開)を経て、今回の第3期(2018年公開)において、ほぼ全容を現したことになる。

新たに公開されたのは、1634(寛永11)年の将軍徳川家光の上洛のために、その前年から増築された上洛殿や湯殿書院、そして、清州城から移築されたとも伝えられる黒木書院だ。上洛殿の鷺の廊下に足を踏み入れると、寛永期の建築様式の特徴が、目だけでなく、その空気でわかる。障壁画は鴨居の上にまで描かれ、欄間や天井は豪華絢爛、飾り金具の見事さも際立っており、技術や文化を次代に継承する意気込みとかかわった方々の技術力に、思わず目を見張る。

鷺の廊下を過ぎると、すぐに上洛殿三之間。狩野探幽の代表作ともいえる襖絵「雪中梅竹鳥図」のある間だ。これまで見取り図でしか見ることのできなかった空間が、復元模写された障壁画とともに目の前に現れると、感激と同時に、平面の図ではわからなかったことに気づくこととなった。

「雪中梅竹鳥図」襖の鴨居の上には、漢画の様式を思わせる山水図が描かれていたこと、一方、隣の二之間との間を仕切る「芦鷺瀑辺松樹図」襖の上に極彩色の欄間があったこと。「雪中竹林鳩雀図」は廊下との間を仕切る襖であったこと。東側と南側は廊下から庭へとつながること。方角のみではわからなかった独特の空間表現。そして、何よりも「雪中梅竹鳥図」の中心には、枝にとまる雉が存在感をもって描かれていたのだということ。

狩野探幽の「雪中梅竹鳥図」は現存する。江戸城などの作品が現存しないことを思えば、それだけで貴重な存在でもある。名古屋城本丸は1945(昭和20)年に天守閣とともに焼失したが、1049面の障壁画は空襲の数か月前に名古屋市職員が疎開させたことによって、戦災を免れたのだという。

実物の「雪中梅竹鳥図」に、雉の姿を確認することはできない。尾の部分だけが不自然に枝から下へと伸びているのみだ。本図の枝は、地の色を生かして描かずに描く雪の外隈に特徴がある。枝のその部分には、修復されたようなシミが残っている(切り取られた部分を補修した跡とも)。実物では、雉の姿がないことによって、視線が枝の先から流れるように尾長に誘導され、場面に時を感じる抒情性が生まれているようでもある。雉は、不本意な損傷によって消えてしまったのだろうか。もし、意図的に消されたとしたら、それは誰の手によるものなのだろうか。

神秘的で知りがたいことである“幽微”を探るという意味を持つ「探幽」。上洛殿の障壁画を手掛けたのは33歳の時だ。73歳まで生きた彼が晩年、自身の代名詞として捉えていたと考えられているのが「富士山図」。そこには、先人の作品から学んだ絵ではなく、京と江戸の両方に屋敷を持つ探幽がきっと目にしたであろう日本の景色が描かれている。その横に伸びる非対称の三角形の構図の美しさに「雪中梅竹鳥図」の空間的広がりとの共通点を見出すとすると、もしかしたら…。

約400年前、将軍が京を訪れた際にしか使用することのなかった上洛殿。ほぼ人の目に触れることのなかった建物を、出来上がったと同時に目にすることができるのは貴重な体験だ。そして、復元や模写作業そのものからも、新たな発見がきっとあったであろうことを想像させる名古屋城本丸御殿。技術と文化を繋ぐ、次代へのギフトのような復元建築になっている。

 

上洛殿三之間「雪中梅竹鳥図」

将軍が休んだ部屋は意外とシンプル

上洛殿の引手金具

湯殿書院の建物

唐破風の曲線が美しい杮葺の屋根

 

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愛知県名古屋市中区本丸1番1号
名古屋城本丸御殿
http://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/
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