隅々まで洗練された映像が語るもの。2つの文化を生きた藤田嗣治を描く、映画「FOUJITA」

まるで隅々まで精緻に描かれた絵画のよう。煙草のけむりや雨の音まで、描き尽くした絵画に出会ったときの感動がそこにある。その中に、確かに藤田嗣治はいて、そして動いている。フジタを客観的に描いているのにもかかわらず、観客はフジタの視点を感じることができる。それは、芸術的感覚が研ぎ澄まされた、極めて冷静な人物の視点だ。

時代背景などの説明は、ほぼ皆無だ。藤田嗣治がエコールド・パリの寵児となった1920年代、そして、戦時の日本の1940年代。場所も時代も真っ2つになって、映画は進む。それだけ異なる場面、その中で生きるかのように。

先日、東京国立近代美術館で藤田嗣治の作品を観た時に大きく残った疑問は、彼の心情だったのだと思う。日本とフランス・パリという、2つのアイデンティティを持ったフジタ。その2つの場所で、絵筆のみでしたたかに上り詰めた男の心情の本質。「乳白色の肌」「面相筆」「猫」「5人の妻」「アッツ島玉砕」「戦争責任」「フランス帰化」「宗教画」多くのキーワードに触れながらも、フジタそのものの思いが謎めいているからこそ、人々はそこに近づきたいと願うのだ。

しかし、そんな説明は映画には登場しない。だが、観客はそれぞれに感じるだろう。パリに深く触れれば触れるほど、日本人であることが際立つこと。日本に馴染めば馴染むほど、パリに生きるFOUJITAであることを思い知ることを。

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映画「FOUJITA」が公開されたのは、奇しくも、パリの同時多発テロが、世界中を悲しみに包んでしまった日だった。

美しいパリの街に、銃より絵筆を。

「FOUJITA」公式サイト
http://foujita.info